報恩講法要のご報告
10月5日(日) 報恩講法要がお日中・お逮夜と続けて勤まりました。
朝から雨が降りしきっていましたが、多くの皆様にお参りいただきました。
今年も昨年に引き続き、大阪府 最勝寺ご住職の中井布教使をお迎えし、御法話いただきました。
今回は、歎異鈔第9章
念仏もうしそうらえども、
蛹躍勧喜(ゆやくかんぎ)のこころおろそかにそうろうこと、
またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬはいかにと、
そうろうべきことにてそうろうやらんと、
もうしいれてそうらいしかば、
親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。
よくよく案じてみれば、天におどり地におどるほどに
よろこぶべきことをとろこばぬにて、
いよいよ往生は一定(いちじょう)とおもいたまうべきなり。
よろこぶべきこころをおさえてよろこばせざるは、煩悩の所為なり。
しかるに仏かねてしろしめして、
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫とおおせられたることなれば、
他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、
いよいよたのもしくおぼゆるなり。
をご讃題にあげ、お話下さいました。
歎異鈔第9章は、唯円様がお師匠である親鸞聖人にご自身の疑問をおたずねされたところです。
唯円様の疑問を意訳すると、
「念仏をとなえても、歓喜の心がない。
お浄土へ早く行きたいとも思わない。どうしてだろうか。」
というお言葉になります。
そののち、親鸞聖人も同じお心である、というご返答が続きます。
2座席に渡りお話下さいましたので、とてもまとめることはできませんが、
私たちが煩悩にまみれているということ。
目的地(お浄土)へ向かって進むというのは、現在地を知り、
向かっていく道中からすでに始まっているということ。
すなわち浄土真宗とは今を生きる私たちにむけて働きかけてくださる教えであるということ。
など、多くのことに気づく御法話でした。
皆様もお心に残ったお言葉、お話をたびたび思い返していただければと思います。
また、今回総代・世話方の皆様に準備・片付けをしていただきました。
みなさま雨の中、本当にありがとうございました。


